薩摩藩と戦っていた相良藩は、人質を差し出して和睦を結びますが、薩摩藩は「八代は薩摩の領地」として攻略し始めました。いつまた人吉球磨に攻め入ってくるか、人々は不安に駆られていました。
そんな時、薩摩藩との戦いで死んだ先代相良藩主の腹違いの弟で薩摩に住んでいた頼貞(よりさだ)が、多良木を訪れました。そこで、相良藩の出城にいた湯山佐渡守宗昌(ゆやまさどのかみむねまさ)が、弟である普門寺住職の盛誉法印(せいよほういん)と共に会いに行き、死んだ先代藩主の悔やみと世間話をしたそうです。
しかし、宗昌をよく思わない者がそれを知り、「宗昌と盛誉法印は、薩摩の頼貞と手を組んで人吉球磨を攻める」と相良藩に嘘の密告、それを聞いた藩は普門寺を攻め落とすことにしました。
反逆の罪がかかっていることを知った宗昌と盛誉法印は、二人で逃げれば本当に反逆したと思われるため、宗昌は日向(宮崎)に逃げましたが、盛誉法印は普門寺に残ったそうです。
そして普門寺に攻め入る前日、「宗昌は何を考えているか分からないが、仏に仕える身の盛誉法印を殺してしまっては取り返しつかないことになる」と、家老が判断。普門寺への攻撃は中止と伝える為、早がけの犬童九介(いんどうくすけ)を普門寺へと走らせました。

密告した者たちは、自分たちの策略がバレてしまった時、攻撃中止の使いが早がけの九介であろうと予測し、「人吉から馬で来る者は酒好きなので、水を求められたら焼酎を出すように」と行く先々でおふれを出しました。案の定、九介は免田でのどが渇き、茶屋で水を求めました。住人は「この人がおふれの人か」と、大きな器で焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔ってふらふらの九介は、何とか多良木までは行ったが、馬にも乗れず歩くこともままならず、道端で寝てしまいました。そのため、攻撃中止の連絡は届かず、盛誉法印は殺され、火が放たれました。九介が到着したときにはすでに普門寺は炎上、策略に乗ってしまっていたと知らず、責任を感じて切腹したそうです。
無実の罪で殺された盛誉法印の母、玖月善女(くげつぜんにょ)はその恨みを晴らす為、愛猫とともに市房山神宮にこもり、指を噛み切り、血を神像に塗って、愛猫にも血を舐めさせ、怨霊となって相良藩を祟るようにいいました。そして数十日の断食の後、猫と共に身を投げました。
その間もなく、相良藩に猫の怨霊が出る、盛誉法印を殺した武士が狂い死にするなどの奇怪なことが起こりはじめました。
その祟りが恐ろしく、相良藩は焼け落ちた普門寺の跡に生善院を建て、狛犬ならぬ狛猫を置き、参るようにしたところ、怨霊は静まったそうです。とても長かったですが(笑)これが、生善院ができ、猫寺と呼ばれる由来です。