ロゴに込めた思い
2匹の鮎は「お客様」と「私たち」。
人吉・球磨を訪れた「人」と、おもてなしをする「人」のつながりや支え合う思いを込めた。
落款は代々伝わる家紋の「下がり藤」を配した。
「鮎」という漢字の成り立ちは、『日本書紀』によると、神功皇后が釣りをした際に、「私は西の方の財の国を求めています。もし事をなすことができるなら、河の魚よ釣針を食え」と述べて竿を上げると鮎がかかっていた。そこで神の教えを知り、神祇を祀り新羅征討を行うことを決定したという。
それから、アユは「占魚」と書かれ、後に鮎という字がつくられたようだ。(※諸説あり)
神功皇后のエピソードから読み取れるように、古代より天皇家と「鮎」の結びつきはとても強かった。
今でも天皇陛下の即位式の時には、「鮎」が5匹描かれた万歳幡(ばんざいばん)という旗を立てる習わしがある。
五尾の「鮎」と厳瓮(いつへ:祭事に用いたつぼ)が描かれているが、これも神武天皇が建国を占った伝説に由来する。
「鮎」という魚が日本列島に登場したのは今から1000万年前、ヒトはまだ類人猿で、ようやくオランウータンが誕生した頃。
「鮎」は、我々よりもはるかにこの日本列島の先輩なのです。
「魚」の紋様は、古代から魚はたくさんの卵を産むため、子孫繁栄の吉祥文様で富と幸福のシンボル。
古くは蓬莱(ほうらい)の島を行き交う魚が、正倉院の宝物や平安時代の装飾品に見られます。
ひらがなの「あ」は、およそ1000年前に紫式部が書いた『源氏物語』が大きく関係しています。
この時期に、日本の風土や暮らしに合った文化が生まれ、その一つが「かな文字」です。
「あ」とは「あいうえお」の5母音のひとつであると同時に、日本語の五十音(ごじゅうおん)の第1音で、ひらがなで表したもの。
ひらがなはもともと、漢字の字画を省略して書いた形が、やがて本来の漢字の意味から離れて日本語を記す一音として独立して使われるようになった。
「あ」は、漢字の「安」が行書体や草書体で書き崩して書かれるうちに、「あ」が生まれた。
「安」は、一説には女性(「女」)が家(うかんむり、宀)の中にいる様子を表すと考えられており、安心、安泰など、やすらかで落ち着ける雰囲気を指す言葉に使われている。
DISCOVER HITOYOSHI
DISCOVER HITOYOSHIのシンボルは、漢字の「舎」と「青井阿蘇神社」をモチーフにデザイン。「舎」の成り立ちである、余(余裕)+口(建物)=舎(手足をのばしてくつろぐ家。宿)。を意味し、人吉の象徴である「青井阿蘇神社」と文字を組み合わせた。
球磨・人吉地方に人が住みはじめた歴史は古く、遺跡、遺物などからすでに旧石器時代(紀元前2万6千年前ごろ)には人々が生活していた。文献にはじめて、地名が現れるようになるのは平安時代中期。この地方の総称である「球磨」という文字は、南九州の有力な部族であった「熊襲(くまそ)」が「熊縣(くまあがた)」になり、そしていつしか、地名の「球磨(くま)」になったものといわれる。
同じころ、「人吉」の地名も現れ、醍醐天皇(898年から921年)の時代の「和名抄(わみょうしょう)」に球磨郡に球玖・久米・人吉・東村・西村・千脱の六郷があるとの記述がある。
人吉の語源は、人吉が、当時、日向(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)、佐敷(さしき:熊本県芦北町)を結ぶ交通の要衝(ようしょう:軍事・交通・産業のうえで大切な地点。)であり、「舎」つまり宿があり、これを“ひとよし”と読んでいたため、「人吉」となったといわれる。(諸説あり)
「舎(シャ)」とは、手足をのばしてくつろぐ家を表す形声文字。会意では、余(余裕)+口(建物)=舎(手足をのばしてくつろぐ家。宿)。音読みの『シャ』は、駅の建物を駅舎、田とくつろぐ家で田舎、皇族に仕えて雑務をする人を舎人(とねり)と言う。「亼(シュウ)」は「天の気」と「地の気」を集めたものという意味の文字であり、天蓋(テンガイ)すなわち「天空」でもある。「亼(シュウ)」の下に、“若草”を意味する「屮」(テツ)と、“場所”を意味する「口」を加えて創られた漢字で、天空の下で若草が生い茂っている場所は草原や野原。それは「舎」という漢字を意味する。
国宝「青井阿蘇神社」は、三柱の神々である。御祭神の名は、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三柱の神々。
球磨・人吉は、神(霊獣)に護られた選ばれた土地で、「南方の池は神様の姿を写すであろう」「北方は人々の騒がしい生活を阻むであろう」「東方の高く聳える城郭は猛族の進入を阻むであろう」「西方にひろがる林は暴風や火災を防ぐであろう」からこの場所は神を祀るに最もふさわしい場所だと、古い棟札(むなふだ)に記されている。
また別の見地から、風水思想の「四神相応(ししんそうおう)の地」として考えることができ、この四神に護られた地こそ富に恵まれ子々孫々まで繁栄する「未来永劫の吉祥の地」という考え方も。「東方を守護する青龍は川に棲み」「南方を守護する朱雀は池に棲み」「西方を守護する白虎は道に棲み」「北方を守護する玄武は山に棲む」とされていて、東に川、南に池、西に道、北に山で囲まれた地こそが四神に護られた地、すなわち四神相応の地が「人吉」である。よって、東に球磨川・山田川、南に蓮池、西に大路、北に村山と平安京にも似た地形の場所に神社が創建された。